今から、「地震学の父、大森房吉」の紙芝居をします。

「地震学の父」と言われた大森房吉とは、いったいどんな人だったのでしょうか。

「うわー!地震だ!」

「外へ逃げろ!」

 
 

食事中だった房吉少年も、あわてて茶碗とはしを持ったまま、
家の前の空き地に飛び出しました。

物の落ちる音や壊れる音に、人々はますます不安になります。




 
 

「いったいこの世はどうなったんだろう?このまま大地が割れていくんだろうか?」

房吉の頭の中には、次から次に不安と疑問がわいてきました。

「こんなに大きく地面がゆれるのに、なぜ、前もって知ることができないんだろうか?」

「ナマズが本当にいるうんだろうか?」

房吉は、寝ても覚めても地震のことばかりを考えるようになりました。



 
 

「地面の底には、大きなおばけナマズが住んでいて、
少しでもひげやしっぽを動かすと地面が動いて地震が起こるんだぞ。」

「そうだ。そうだ。」

「おお、こわーつ。」

この時代の人たちは、こんなことを信じていたのです。

房吉少年は、今から140年くらい前の明治元年(1968年)福井城下 
新屋敷百軒長屋で生まれました。

房吉には、兄弟が8人おり、大森家の生活は苦しかったようです。



 
 

明治7年、房吉は創立されたばかりの旭小学校に入学しました。

 (校歌を歌う。)

 桜の馬場に生い立ちて 根ざしも深き学び草・・・・・


 
 

「こらー、大森! どこを見ている。この字を読んでみよ。」

「はいっ。「かてい」です。次の字は「きろく」です。」

房吉はよく、学校で先生からどなられました。

それでも、ほかの子どもが知らない字をすらすらーっと読めるほどかしこくて、
いたずら好きの少年でした。



 
 

明治10年、房吉が3年生の時、大森家は東京へ引っ越すことになり、
当時の平瀬校長は房吉に、

「大森、東京に行ったら、しっかり勉強するんだぞ。
先生はおまえのことを忘れんぞ。じゃ、たっしゃでな。」

と、言葉をかけられました。

房吉は、日頃のわんぱくぶりもどこへやら、しんみょうな顔つきで、

「はい、しっかりやります。校長先生もどうかお元気でー。」

と、汽車の中から手を振りました。

房吉は、一生懸命勉強して、今の東京大学理学部に進み、博士になりました。




 

「大森博士、もう山を降りましょう。」

「いやっ、おじけづいてはだめだ。まだ、登るんだ。」

浅間山が大噴火したときも、無理をおして登山して、現地調査をしていました。

房吉は、日本各地をまわり、地面の揺れ方やその前後の様子などを
、くわしく土地の人に尋ねて回りました。

その努力の結果、大森式地震計を完成させ、世界中の学者を驚かせました。

 



 

そして、世界各国から、たくさんの表彰を受けました。

ノーベル賞の候補にもあがりましたが、地位や名誉・財産にこだわらない房吉は、

「たくさんの表彰をいただいたから、もう結構。」

と、ことわったそうです。

残念ですが、日本人初のノーベル賞にはなりませんでしたね。





 
 

さて、大発明をした房吉ですが、まだ、頭を痛めていたことがありました。

「大都市での震災は、大変な事態になってしまう。水道や電気も使えないし、
大火事になったらもっと大変だ。なんとかして、地震を早めに知らせなくては!
国民に申し訳ないぞ。」

と、病気をおして、研究を続けました。




 
 
 

しかし、大正12年11月8日、

「ああ、残念だ!まだまだ知りたいことがあるのに・・・。」

と叫びながら、大森房吉は、56歳の若さでなくなりました。

その手には、しっかりと「研究中の地震計」を持っていたそうです。

これで、大森房吉の紙芝居を終わります。