この紙芝居は、私たちのふるさと、旭地区に生まれ、
昭和の初めの激動の時代を生きた、
岡田啓介と松尾伝蔵のお話です。

 
 
この写真は、左が岡田啓介総理大臣で、
右がその妹の夫で秘書をしていた松尾伝蔵大佐です。

この二人は、2.26事件の時に、大きくかかわっています。


昭和11年2月26日の雪の日の朝のことです。

どたどた。ばたんばたん。

「岡田、どこにいるんだ。」「さがせ、さがせ、絶対隠れているぞ。」

「総理大変です。」「とうとう、軍隊がおそってきました。」「何だ。どうしたんだ。」

「軍隊がおそってきました。」「どうかお逃げください。」

「いや、私は逃げない。死ぬことは怖くない。」

「何をおっしゃるのです。あなたはまだ大切な仕事が残っています。」

そう言って、松尾伝蔵は死を覚悟した岡田啓介を無理矢理、風呂場にかくしました。味方が全滅した後、松尾伝蔵は反乱軍の前に姿を表し、岡田啓介の身代わりとなって、鉄砲の弾(たま)を全身に受けました。それでも姿勢を崩さず、りんとした姿で息絶えた伝蔵を総理大臣と信じた反乱軍は、

「ばんざい、岡田をたおしたぞ!」とさけんで、引き上げました。

これが世に有名な2.26事件です。

 

福井で初めて内閣総理大臣になった岡田啓介は、明治元年(1868年)荒川沿いの侍屋敷で生まれました。今の旭小学校の近くです。

小さい頃は大変なわんぱくで、気ままな子だったそうです。

「こんなにかんしゃくが強くては、立派な侍にはなれない。」

とたいそう心配しました。

なんとかしようといろいろな煎じ薬を飲ませましたが、全く効き目がありませんでした


 
 

入学した小学校では、地震学の父と言われた大森房吉と大の仲良しでした。

しかし、まじめに勉強した房吉とは違い、ガキ大将であった啓介は、学校に行くふりをして、荒川で花火を作って打ち上げたり、なべを持ち出して煮炊きをしたりして遊んでばかりいたので、成績はとても悪かったそうです。

 
 

啓介のわんぱくぶりを紹介しましょう。

ツツジの花が咲く頃です。啓介は友だちと学校をサボって、荒川にタケノコを採りに出かけました。そのとき、啓介は「へび」にかまれてしまいました、すぐに医者に診せなかったので、首から下がぽんぽんにはれ、死ぬの生きるのと大騒ぎになり、ました。

治るのに1ヶ月もかかり、みんなを大変心配させました。


 
 

そんな無鉄砲な啓介でしたが、旭小学校を卒業した後、橋本左内の啓発録を読み、「このままではいけない。」

と、すべての遊びをやめ、勉学に励むようになりました。

成績がぐんぐん上がっていった啓介を周りの人は、「今、橋本」と呼ぶようになりました。これは、橋本左内の生まれ変わりのように、かしこいという意味です。

ちょうどそのころ、啓介は総理大臣になる夢を見ました。

ようし、おれはもっと頑張って立派な人になり、世の中のために働くぞ。」

と、心にちかい、夢を実現させるため、東京に旅立ちました。


 
 

そして、ますます勉学に励みました。やがて海を守る大臣となりました。その後昭和9年、内閣総理大臣になり、日本の国や人々のためにつくしました。

日本の最高責任者になった啓介でしたが、その生活は大変貧しいものでした。

なぜなら、我が身のことはさしおいてでも、人の世話や面倒を見る心の広い人だったからです。

例えば、こんなエピソードがあります。

「えいっ、冬物でも我慢するか。」

啓介は。夏の総理大臣任命式に着ていく服をもっていませんでした。それで、暑いのを我慢して、冬服で出かけました。

写真には、手で帽子をささえている啓介は写っています。当時、それはとてもお行儀が悪いことでした。実は、帽子も人から借りたものでした。その帽子が大きすぎたので、支えていないと顔が隠れてしまったそうです。

小さきことにこだわらない、おおらかな人柄がうかがえますね。


 
 

大臣になった啓介が、墓参りのために福井に帰ってきたときのことです。旭小学校の校庭で、地区の人にこんな話をしました。

「人間は、いつ災難が襲われるかもしれないので、普通の生活にあっても、怠けることなく。八分で満足する心がけで十二分努力してほしい。」

十二のうち八、残りの四は天に預けるといく気持ちでいたそうです。

また

「福井には、うまいカニとウニがある。九頭竜川には、うまいアユがいる。」

、ふるさと福井を、いつもみんなに自慢していました。

荒川の水に親しみ、楽しく遊んだ桜の馬場や福井のおいしい空気、豊かな自然、岡田啓介は、そういったふるさとが大好きだったのですね。


 
 

啓介が総理大臣として活躍した時期は大変な時代でした。

戦争反対、平和主義を信念とし、啓介は

「アメリカと戦争してはいけない。」

、人々に訴えました。しかし、このような考えは、当時の人にはなかなか受け入れられませんでした。

そしてとうとう、昭和11年2月26日、啓介は、官邸で反乱兵士に襲われました。しかし、松尾伝蔵らの命をかけた活躍によって、無事官邸を脱出することができました。

その後、戦争へと進んでいく日本を救うことが自分の役目だと信じ、昭和27年(1952年)85歳で一生を閉じるまで、平和のために尽くしました。

その功績をたたえ、福井市中央公園に銅像が建てられました。


 
 

それでは、岡田啓介の身代わりとなり、岡田啓介や日本の将来を救った松尾伝蔵とは、どんな人だったのでしょうか。

松尾伝蔵は、明治5年(1972年)に福井市手寄中町に、元藩士の子として生まれました。

「人のお手本になるよう学問に励みなさい。」と厳しく育てられ、日本の国を大切に思う意思の強い人に育ちました。

そして、優秀な成績で、陸軍士官学校を卒業し、軍隊に入りました。軍隊を辞めた後は福井の戻り、旭の教育会長や市議会議員として、地域や社会のために尽くしました。

大変、めんどうみがよかったので、地域の人から「松尾の伝さん」と親しまれ、慕われていたそうです。


 
 

義理の兄である岡田啓介が内閣総理大臣になったときのことです。

「兄の一世一代の仕事だから、どうしても自分が言って面倒を見てやらねばならない。」と、秘書の仕事を買って出ました。お給料ももらわず、官邸に寝泊まりし、誠心誠意を尽くしたそうです。

こんなエピソードがあります。

「おれは岡田大将によく似ているだろう?この頃、ひげのそり方まで似せているんだ。」

「岡田大将の頭は五分刈りだよ。松尾さんは、すそのほうにちょっと毛があるだけなんだな。まるで別人。知っている人は間違ったりなんかしまいよ。強いて言えば、二人とも年寄りということだけだな。」

どんなときでも、私は影武者として命をかけて岡田総理大臣を守るんだという心の洗われだったそうです。

  

残念なことですが、その言葉どおり、世に有名な2.26事件において、伝蔵は身代わりとなって啓介の命を助けました。

約10日後の3月7日、この旭小学校で地区の人によるお葬式がしめやかに行われました。伝蔵の死を悲しむ地域の人たちが大勢集まりました。

そして、その功績をたたえ、校庭に胸像が作られました。   銅像は平成28年10月に福井駅東口に移りました。

毎年、2月26日の命日には、地区の人たちで献花祭が行われています。

みなさん、ぜひ、そのお顔をごらんください。

意思の強い、でも、とてもやさしい目をして、私たちのことを見守ってくださっています。